一番困難なことに最初に立ち向かう

ホンダコレクションホール

スーパーカブのさらなる販路拡大とともにホンダの大きな飛躍を目指すには輸出が欠かせない。地理的条件から東南アジアが最有力候補だった。まずは東南アジア、次にヨーロッパ、最後にアメリカと攻めるのが順当だと誰もが考えた。しかし藤澤は、世界経済の中心はアメリカにあり、そこで需要を開拓すれば、一気に世界市場で成功できると考えた。ホンダの精神は、一番困難なことに最初に立ち向かうことだと訴え、反対を押し切って対米輸出を決めたのである。
1959年6月、ロサンゼルスの郊外にアメリカン・ホンダ・モーターが設立された。日本からアメリカに渡ったのはわずか3人だった。その国に根付いて事業を展開する以上、現地の人たちが主役となって、喜んで働いてもらえる企業でなければならないという考えに基づいたものだった。
しかし無名のホンダにとって、アメリカ市場は試練の場でアメリカは交通手段の主流は自動車でオートバイはアウトローの乗り物というイメージがあった。オートバイを好む一部の人たちは、そのファッションスタイルから「ブラックジャケット」と揶揄され、健全なイメージを持った乗り物とは言えなかった。オートバイ市場は年間6万台、500cc以上が主流だ。ベンリイ125とドリーム250・300でスタートし、スーパーカブも加えて市場の開拓を目指したが非力で売れず、逆転の発想でレジャー用として最も小型のスーパーカブをメイン製品に切り替えた。1ドル360円だった時代に500万ドルの巨費を投じて大胆な宣伝戦略に打って出た。オートバイの屈強なイメージと一線を画して、スーパーカブは明るく健康的で、ピースフルな印象を与えた。ホンダがもたらした新しいライフスタイルにアメリカの人々は魅了され、たちまち爆発的ヒットとなった。1963年には8万4,000台、65年には26万8,000台を販売。アメリカ市場におけるホンダのイメージを定着させた。
 一方、販売拠点づくりやサービス体制は、日本におけるホンダの販売・サービス手法を継承したものだった。スポーツ用品店やモーターボート店、釣具店などにダイレクトメールを送付し、新たなレジャーを提案するかたちで目新しいオートバイを紹介した。オートバイ販売店には店舗改装を勧め、従来の薄暗く油にまみれた店のイメージを一新していった。ティーンエージャーとファミリーを取り込み、モーターサイクル文化そのものを根底から変革する。いわばホンダはモーターサイクルではなく「スーパーカブ」というまったく新しい乗り物を提案した。そこに成功があった。
これにより日本と同じく女性の人もオートバイに乗ることが出来るようになった。(お父さんが娘にスーパーカブなら乗っていいと)言われる程の安心と信頼を獲得できた。
トレイル90 CT200
スーパーカブの持つポテンシャルを生かしたトレイル(不整地)車。
豊かな自然が多いアメリカ市場を考慮し、大型ハンドル、キャリアなど装備充実のハンター向けモデル。
エンジン:空冷4ストローク 単気筒 OHV 86cc 最高出力:6.5PS 重量:82kg 自動遠心クラッチ付4段変速 販売年:1964年

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