マン島レース 苦しい時だからこそ夢が必要

ホンダコレクションホール

未来をここで潰すわけにはいかない。藤沢武夫が経営の立て直しに死力を尽くす中、本田宗一郎は世界最高峰と言われた「マン島TTレース」への出場を社内外に向けて宣言した。「苦しい時にこそ夢がひつようだ」「我々の着想をもってすれば必ず勝てる」。二人の決断は従業員全員を奮い立たせた。
実はこのマン島レースの出場を提案したのは藤沢武夫だった。従業員の希望のために大きな夢という山を藤沢武夫は作りました。
宗一郎は現地に行き、そこで見た光景に驚きを隠せずにいました。ヨーロッパの一流メーカーはホンダと同じ排気量で3倍もの馬力を出していました。宗一郎は旅行費のほとんどをヨーロッパのバイク部品につぎ込んで持ち帰ってきました。
そして1959年6月念願のマン島レースに初出場を果たし、アメリカ人ライダーが1名と日本人ライダー4名で出場した。予想を上回る厳しい路面やコース状況の中、初出場で5台中4台が完走した。ワークス3台による125ccクラスのメーカー賞を受賞した。続く1960年には、125ccクラスで6位~10位、250ccクラスで4位~6位と成績を上げた。

RC142
1959年 エンジン:空冷4ストローク 2気筒 DOHC 4バルブベベルギヤ駆動 124cc 最高出力:18PS 重量:87kg
マグネット一点火、6段変速

そしてついに、1961年6月に125cc・250ccクラスの両方で1位~5位までを独占し、タイムも新記録を樹立する。世界の主役として脚光を浴びた瞬間だった。イギリスのデイリーミラー紙は「たった三度しか出場したことのない日本のメーカーが、いかにして驚くべき成功を成し遂げたか?バイクを分解してみたとき、率直に言ってあまりによくできていて驚愕した。まるで精密な時計のようにつくられており、なにものの模倣でもなかった。独創的で素晴らしいアイデアから生み出されたものだった」と報じた。
マン島レースへの挑戦はホンダにとってどの様な目標のだったのか。
技術の進歩を加速させるまたとない試練の場であるとともに、社内には大きな夢を共有する一体感と達成感をもたらし、市場に対しては、高性能・高品質を世界的にアピールするための山だったに違いない。後のヨーロッパ市場進出を見据えて、技術力と存在感を示す戦略の一環となった。マン島TTレース優勝は、海外の日本製品に対する視線が変わり、さまざまな日本製工業製品の輸出量が増えた。
今の現代社会においてこれほどの山を造り、会社全体、社員全員で突き進もうとする大手企業があるだろうか? 攻めて(挑戦)続けることにより守れると言うことがこの失われた30年の中で一番失ったではないか?と私は思います。

2RC143
エンジン:空冷4ストローク 2気筒 DOHC 4バルブベベルギヤ駆動 124cc 最高出力:23PS 重量:97kg
マグネット一点火、6段変速

RC162
エンジン:空冷4ストローク 4気筒 DOHC 4バルブギヤ駆動 249cc 最高出力:45PS 重量:126.5kg
マグネット一点火、6段変速

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