世界一じゃなきゃ日本一じゃない

ホンダコレクションホール

タイトルの言葉は本田宗一郎の口癖で、たとえ日本一になったとしても優秀な海外製品が輸入されてしまえば負けてしまう。世界一の性能、耐久性を求めました。

A型の生産後、世界一をとるためには今後、人々はもっとパワーが必要とされると予想していた宗一郎はエンジン開発に力を入れていたが従来の自転車のパイプフレームでは走行時の衝撃や振動に対する強度が足りないとし、1949年8月、フレームからすべて自社製の本格的なオートバイ、ドリームD型とC型登場し成功おさめた。

しかし、1949年に経営にくるしんでいた。ドリームD型は変速ペダルを踏みっぱなしにしなければならない半自動のクラッチシステム、アメリカの金融引き締め策に起因する不況、ライバルメーカーとの競争など、さまざまな理由で、販売台数は失速して、ホンダは早々とピンチに直面してしまった。

上の写真は C型バイクです。

エンジン:空冷2ストローク単気筒 ロータリーバルブ 96cc 最高出力:3PS

片持ちクランクシャフト ガーター式フロントサスペンション

1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、在日アメリカ軍からの物資やサービス需要が高まり、国内景気が上向き始める。好景気のさなか1951年10月に発売されたのが、146ccのエンジンを載せたドリームE型だ。採用された4ストロークOHVエンジンは高い工作精度が要求され、コストもアップする。しかし2ストロークに比べ、排煙や騒音の大幅な低減という優れた商品性を実現できる。発売前に行われた「箱根越えテスト」では、当時の日本製オートバイには難所であった箱根峠の上り坂をドリームE型はトップギアのまま一気に駆け上がった。また、雨天突破の走破にも成功し信頼と耐久性を実証した。

営業担当者の地道な努力もあり、D型の月産が最高160台程度だったのに対して、E型は半年後に500台を記録し、3段変速になった1年後には2,000台を記録。3年後には年間販売3万2,000台と売り上げが急上昇した。

エンジン:空冷4ストローク単気筒OHV 146cc 最高出力:5.5PS

銅板チャンネルフレーム 2段変速

そのころ、東京工場ではカブ号F型の開発を進めていた。自転車用補助エンジンの最新作だが、白い燃料タンク・真っ赤なエンジンはデザイン的にも斬新で、自転車に取り付けたスマートな姿は誰にでも親しめる雰囲気を持っていた。また、全国の自転車店を新規販売網とし、段ボール箱詰め発送するなど斬新な拡販戦略がとられた。

二輪車業界には例のないダイナミックなPR作戦をスタートさせた。当時、人気絶頂だった日劇のダンサー50人が乗ったカブ号F型が東京・銀座を華々しくパレードした。その光景は全国に報道され、女性も乗れるカブ号F型の名は日本中に一気に広まった。

エンジン:空冷2ストローク単気筒 50cc 最高出力:1.0PS

ペダル式始動 後輪チェーン駆動

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